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2019年2月 7日 (木)

榎田ユウリ著『宮廷神官物語 五」を読む

宮廷神官シリーズの第5巻を買った。

この第5巻は、平成31年1月25日初版発行の角川文庫。「宮廷神官物語 慧眼(けいがん)は主(あるじ)を試す」を角川文庫化したものの五冊目。
いわゆるファンタジー小説である。
たまたま本屋で見つけ、第1巻を読み、その独自な作風、登場人物たちに出会い、ファンになった。
作者も初めての人だったが、以来、新刊を心待ちにしていた。だからいつも、本屋に寄ると、新刊はないか、確認していた。で、五巻なわけ。
先日、北方謙三氏の「史記 武帝紀」を読み終え、その壮大な物語を充分味わった後だったため、この宮廷神官物語の軽さが心地よい。
一冊の文庫本の厚さも、武帝紀の三分の一。
すぐ読んでしまいそうだが、物語にはそれぞれが時間の流れ方が違うため、単純にページ数で終わりはしない。
かつて京都で大学に通っていた頃、
最初、母親のお茶の師匠の家に下宿していた。
大家さんは、表千家のお茶の師匠、旦那さんは朝日新聞を退職した文筆家。
下鴨神社そばの家の離れにある京間六畳一間に下宿させてもらっていた。
当時はよく午後のお茶の時間に呼ばれた。
大家である師匠とお弟子さんが一人か、二人来ていて、お猪口のような小さな湯呑みにオリジナルのお茶を入れ、少しずつ味わいながら、世間話をするのである。
学生の私からすれば、お弟子さんたちはみな妙齢のご婦人で、いま思えば三十路、五十路の女性たちであり、お師匠さんは六十代の小柄な老婦人だった。
まだ二十歳前の高校卒業したばかりの若造がご婦人たちと会話が成立するはずもなく、毎回ほぼ同じメンバーだから話題もすぐ尽き、思わず出されたお茶を飲むばかりになるわけだが、これがお猪口くらいの小さな湯呑みで、しかも日本酒でもジンでもなく、ただのお茶だから、ぐいっと一回で飲んでしまえる分量だ。
この小さな、小さな湯呑み茶碗の少量のお茶を複数回に分け、少しずつ飲み、ゆっくりとした時間過ごすことができるようになったのは、三カ月も過ぎた頃だった。
ゆっくりとした時間は、単純にスピードの遅さをいうのではなく、穏やかな心で季節を愛で、自然の変化に耳をすませ、止まっているかと錯覚するほどに緩やかな時間の変化を楽しむ風雅を持つことを求められる。
最初、とにかく落ち着かなかったし、手持ちの無沙汰、所作なしで立ち去るタイミングばかりを気にしていた。
正直、たった三分間だったとしても、あまりに長い忍耐の時間だった。
それが10分、20分くらいは正座していられるようになったのは、半年も過ぎた頃だ。
その頃には、ご婦人たちの緩やかな時間と一口で飲めるお茶を味わいながら楽しめるようにはなっていた。
でも、30分以上は無理だった。
10分も正座すれば、すっかり足が痺れ、苦悶する顔に同情され、胡座をかいていいと言われ、よろけながら坐り直すことが何度もあり、笑われていることが少し悔しかった記憶がある。
ただ、
この時のアフタヌーン・ティータイムの時間はいろいろなことを学んだ貴重な体験だったと今は感謝している。
京都での下宿生活で大家さんたちと過ごすと、いつも季節を感じることができた。
十五夜の団子、地蔵盆の祭り、月見に花見、祇園祭に時代祭り。
京都には四季折々の行事が生活に溶け込み、侵入者たる田舎育ちの若者にも季節を思い起こさせてくれる機会にも恵まれていた。
東京には季節がない。
季節を感じる機会が乏しい。
もちろん、
浅草のほおずき市や神田祭、目黒のサンマ祭りなど様々な行事があり、それぞれの季節や時節の記憶があるが、ビルの谷間に暮らす人々にはそれらが時折の出来事であって、参加しないで終わるテレビの中にある向こうの世界だったりする。
だから、
この「宮廷神官物語」に流れる時間の緩やかさは都会のカフェでティーカップを片手に軽やかな音楽を聴くひと時の溜め息とは違い、自然の風や水の音を感じながら過ごす淡い時間のことで、単なる速度の話ではない。
中国だか、古代朝鮮だかにあるらしい架空の国の物語であり、王家があり、神官たちがいて、貴族がいて、無数の庶民や人間扱いされない賎民がいる階層社会であるにも拘らず、その社会制度はそのままに王子が女装して旅の劇団に紛れ込んだり、高貴な神官のはずが山奥まで慧眼の持ち主を探しに出かけ、いつの間にか村人たちと汗まみれなりながら騒動に巻き込まれるも、村人たちはみな神官は偽物だと断定していて、水戸黄門のドラマのように正体が明らかになるや庶民が一斉に平伏する場面などない。
同じ貴族の階層に属しながらも、家柄に上下があり、親の階級がそのまま子ども社会でも守られる中、平然と無視する主人公たちは階層社会の中にありながら、その制度に正面からぶつからず器用に擦り抜け、優雅に泳いでいるようにも思える。
もちろん、時々社会の厳しい現実の壁にぶち当たり、悔しい思いをしたり、酷い扱いを受ける場面もあるがそれらが重くストーリーを押しつぶすこともなく、いつのまにか軽やかに社会の人々の網の目をすり抜ける様に安心したりする始末だ。
ファンタジー小説はどこか子ども騙しな、ありえない漫画チックな話の展開に大人が読むに耐えないものと思い込んでいたところがある。
荒唐無稽なストーリー展開では現実的な大人の眼を楽しませられないと考えていたところがある。
上橋菜穂子氏の「精霊の守り人」シリーズほか、いくつかの作品を読むうち、いわゆるファンタジー小説への偏見や喰わず嫌いな点がなくなったのかも知れない。
むしろ、
上橋菜穂子氏の作品を通じて、ファンタジーと呼ばれる説話の中に、雄大な景色や緩やかな流れる時間、何重にも重なる世界と異なる時間軸や異空間が当たり前のように存在する不思議な世界に感動した。
以来、
こうしたファンタジー小説を気軽に楽しめるようになった。
残念ながら、
まだ好きなジャンルです!と公言できるまでの勇気はまだ無いけれど。

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